東京高等裁判所 昭和32年(ネ)2300号 判決
控訴人はつぎに自ら使用する必要あることを理由として本件賃貸借の解約申入をしたから本件賃貸借は終了した旨主張する。よつて按ずるに成立に争のない甲第六号証(調停申立書)および原審における控訴人法定代理人大類カイの供述によれば、控訴人法定代理人大類カイは昭和二八年一月二三日伊ケ崎日吉を相手方として江戸川簡易裁判所に対し自ら使用する必要がある故本件建物中主文第二項記載部分の明渡を求める旨の調停を申立てた事実を認め得べく、右申立書が同年二月末日伊ケ崎日吉に到達した事実は被控訴人において明らかに争わないところであるからこれを自白したものと看做す。しからば控訴人は同日伊ケ崎日吉に対し自ら使用することを理由とする本件賃貸借の解約申入をなしたものと認むべきである。
つぎに右解約申入につき果して正当事由が存するか否かにつき検討する。
まず控訴人側の事情を調べると、原審及び当審証人大類カイ、当審証人大類芳男の各供述によれば、本件建物はもともと控訴人の父清吉が豆腐製造販売業を営むため昭和九年頃建築したもので、同人は本件建物全部を豆腐製造販売業及び自己の住居に使用していたが、同人が出征し原料大豆も入手し難くなり空襲が激しくなつたので、控訴人一家は田舎に疎開し本件建物を伊ケ崎日吉に賃貸するに至つたこと、右解約申入当時控訴人方は母カイ夫婦、控訴人とその弟妹二人の五人家族で、本件建物中すでに明渡を受けた約八坪の部分中四畳半の板の間を家族の居間兼寝室として残余を豆腐製造販売のための作業場兼店舖として使用し、さらに本件建物の裏側にある建物の四畳半一室を借り受けて物置として使用しているが、これのみでは甚だ狭すぎるのみならず、豆腐製造業は早朝から行かねばならずその湿気は右居間兼寝室に充満し家族一同睡眠がとれず病気勝であり、住込の雇人を置いても寝る所が狭くてすぐ退職するような情況にあること、控訴人は当時豆腐製造販売で月収約二万五〇〇〇円をあげていたが、被控訴人から本件建物中その居住部分約一一坪の明渡を受け得れば、本件建物は本来の効用を発揮し豆腐製造場を拡張しさらに営業収入の増加を期待しうるのみならず、前示のような非衛生的生活を免れうることがいずれも認められる。
当審における証人大類カイの供述により真正に成立したと認むべき甲第一一号証、原審における証人牧島仲次郎の第二回供述及び被控訴人本人の第二回供述、ならびに原審及び当審における証人大類カイの供述によれば、控訴人は前記江戸川簡易裁判所における調停の際被控訴人のため移転先二軒を探して被控訴人に紹介し、また当時移転料七万円を提供する旨申出たが、被控訴人から明渡の確約を得るに至らなかつたことを認め得る。
他方被控訴人側の事情につき考察すると成立に争のない乙第一号証、原審証人伊ケ崎茂子の第一回供述により真正に成立したと認むべき乙第六号証の二、原審及び当審証人伊ケ崎日吉、当審における被控訴本人の各供述を総合すれば、伊ケ崎日吉は元来東京都江戸川区西小松川二丁目九五三番地所在の約一五坪の建物を賃借し母である被控訴人及び妹伊ケ崎茂子を同居させ自ら油小売業を営んでいたのであるが、たまたま控訴人の疎開により本件建物が空家になることを知りこれが表通りに面し油小売業に適しているとして前示のようにこれを借受けたところ日吉自身は本件建物に居住せず専ら被控訴人と茂子をしてこれに居住させ当初は日吉の、後に被控訴人の各営業名義をもつて油小売業を営ませその収入で両名の生計をたてさせたけれども、前示のように本件建物の半分を明渡したので爾後の賃借部分は店舖四坪六畳と約二畳の居間等合計約一一坪となりこゝに被控訴人及び茂子が居住し右営業を継続していたことを認めるに足り、右認定を左右すべき確証はない。
しかるに被控訴人が控訴人の要求に応じて右賃借部分を明渡すにおいては右営業に影響を及ぼし、ひいては被控訴人の扶養義務者たる日吉の利害に関係することは容易に推察しうるところであるが、前示認定の如く本件建物の賃借人たる日吉自身は直接これを使用していないばかりでなく、成立に争のない甲第五、第九号証、原審証人伊ケ崎日吉の各供述を総合すれば、日吉は右九五三番地でなお自ら油小売業を営み家族五人とともにそこに居住するの外、本件建物附近に住宅一棟建坪約一一坪と二階建アパート一棟建坪約五〇坪を所有していることを認め得るのであつて、かゝる事実からすれば日吉は若干の資力があるというべきのみならず右解約申入当時六八才の被控訴人及び茂子を引取り、かつ本件建物における右油小売業を自らの営業に吸収することも考え得るところというべきであつて、右認定と牴触する原審証人伊ケ崎茂子の第二回供述、原審及び当審における証人伊ケ崎日吉、被控訴本人(原審では第一、二回)の各供述は採用せず、その他右認定を左右すべき証拠は存しない。
以上双方の事情を考慮すれば控訴人の前示解約申入は正当の事由あるものというべく、なお当審証人大類芳雄の供述によれば、控訴人は、近時結婚したが、寝るところもない狭さのため一時他に間借して被控訴人から本件建物の明渡を受けることを待ちつつあることが認められ、その他前示認定の双方の事情に変動の見るべきもののない以上、本件賃貸借はこれにより終了したものであり、被控訴人は他に占有権原を主張立証しないから、控訴人に対し所有権に基き本件建物中その占有部分の明渡を求める被控訴人の請求は理由があり認容すべきである。
(松田 猪俣 沖野)